江戸時代、佐野を本拠地に大富豪となった廻船問屋の一族です。本家の幼名は佐太郎、次郎左衛門を襲名。分家は、吉左衛門を名乗る。室町時代中頃には、すでに佐野に住んでいたと言い、楠木氏の子孫だと「食野家系譜」に書かれている。
当時の倉庫の「蔵」は、「いろは蔵」と言われて、48蔵もあった。食野の廻船は、西回りの航路が開かれて「北前船」をあやつり、天下の台所「大坂」と奥羽地方と結びます。大坂からは、木綿、綿実、や菜種油。北国からは、米、ニシン、ほしか(干鰯)などを商い、往復で巨財を築いていきます。
1761年(宝暦11)江戸の中期には、鴻池、三井、加島屋などの大富豪と並んで同額の御用金を受け、1806年(文化3)には、三井と共に本家が3万石。分家が、1万石の買米を命じられています。
紀州藩や岸和田藩は勿論、全国の大名に資金を用立てていました。「加賀の銭屋か和泉のメシか」と言われるほどでした。参勤交代には必ず、紀州の殿様が「食野家」に立寄ったと言われます。
ざれ唄に、次のようにあります。
「紀州の殿様なんで佐野こわい、佐野の食野に借りがある」
幕末には、廻船業がふるわなくなり、そして、明治時代の廃藩置県で大名貸しした貸し金が殆ど貸し倒れとなり、一気に没落してしまいます。
今は、屋敷跡は第一小学校で、松ノ木と井戸枠が残され、海岸筋にはいろは48蔵と言われた倉庫群は、10蔵ほどが残され、その賑わった佐野の面影を残します。
いろは蔵
廻船業などで賑わった
佐野の面影を残します。