泉佐野の商店街
店舗情報 地場名所めぐり 佐野トピックス
地域の便利帳 掲示板 イベント情報
地場名所めぐり

蟻通神社(ありとおしじんじゃ)

地元では「蟻通さん」と親しみをもって、呼ばれています。「紀貫之家集」「枕草子」などにも見られる古寺。かっては、熊野街道にそった、市場と安松の中間にあった。(旧神社跡に記念碑がある。) 1942年(昭和17)「佐野飛行場」建設のために、現在地の長滝中の番に移りました。(移転の記念碑がある)

蟻通伝説の伝わる神社

 「蟻通伝説」が、蟻通神社の名前の由来ともなったと言います。しかし、江戸時代後期「中盛彬」と言う人が、異説を唱えています。

 これは、中国伝来の棄老伝説で、蟻通神社の名前の起こりは、熊野街道の「通りに在る」ところから来たとしています。さて、あなたは、どちらの説をとりますか?

社伝では、158年(孝元57)頃の創建。
祭神は、大巳貴命(おおなむちのみこと)蟻通大明神で、七社の末寺をもつ。 社殿は、一間社春日造、桧皮葺、軒唐破風の様式。1669年(寛文9)建築当時の姿をしています。

  岡部侯献納の絵馬・三十六歌仙の額・慶長12年と刻まれた石灯籠・舞殿など、紀貫之ゆかりの、冠が淵や謡曲「蟻通」。 棄老ばなしの「蟻通伝説」があります。

紀貫之の歌

 紀貫之の歌「かきくもりあやめも知らぬ大空に ありとほしをば思ふべしやは」

「有りと星」と「蟻通」をかけて詠んだもので、貫之が、乗馬したまま「蟻通さん」の前を通り過ぎようとすると急に、馬が暴れだし落馬します。このとき頭上の冠をとばし、そばの池に落ちます。 (この池を「冠之淵」と呼び、旧蟻通神社の北100Mのところにあった小さな池でした。)

このとき、非礼を感じて、知らぬとは言え、ご無礼をいたしました、お許しください、と歌を奉納したのが、この歌なのです。
清少納言の「枕草子203段」
社は、布留(ふる)の社。先田の社。竜田の社。はなふろの社。
美久里の社。杉の御社。しるしあらむとおかし。
事のままの明神、いと頼もし。
「さのみ聞けむ」といやはれ給はむと思ふぞ、いとをかし。
蟻通の明神、貫之が馬の煩いけるに、この明神のやませ給ふとて、
歌詠みて奉りけむに、やめ給ひけむ、いとをかし。
   (布留の社:大和山辺郡の布留神社)  
   (先田の社:摂津武度郡の生田神社)
   (竜田の社:大和生駒の龍田神社)

蟻通伝説

蟻通神社の名前の由来ともなった伝説です。
昔々、唐の国の大帝が、日本をかすめ取ろうと難題を仕掛けてきます。
その一つに次のものがあります。

問、七曲りにくねった小さな管玉に、糸を通せ!

 時の帝は、知恵者を呼びますが、答えが出ません。
これらの難問に誰も答えることができずに、困りはてていると、
ある中将が、答えを差し出します。
すると、見事に答えているではありませんか。
喜んだ帝が、ほうびを授けようと希望を聞くと、
「 何もいりません。
ただ、この答えは、私でなく、両親が考えたものです。
どうか、老人たちの命を助けて欲しい」と申します。
(この頃、帝の命で、うば捨て話のように、老人を殺して捨てる、
棄老が行われていました。)
親思いの息子が、帝の命にそむいて、年老いた両親を、
ひそかにかくまっていたのでした。
この年寄りの知恵で、日本が救われたと言うことです。

これ以来、帝は、老人の大切さを知り、政治を改め、
人々を大いに喜ばせます。
やがて、中将の親を神として祭り、
蟻通明神と名づけて奉ったということです。

クイズの答:
この両親の知恵で解けた、その答えとは、
「七曲の玉」の穴の片方に、「ミツ」つけて、
もう一方の穴から「蟻」に糸をくくり、進ませます。
「ミツ」を、目指して歩き出す蟻は、とうとう七曲をぬけてしまいます。
こうして、糸を「七曲の管玉」に通すことができたのです。

ななわだに曲がれる玉の緒をぬきて
ありどおしとも知らずやあらむ